調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第190回
2025.5.25

玉の石 ゆるやかな筆致

手島石泉が描いた道後

道後温泉・玉の石(県歴史文化博物館蔵)
 ゆるやかな筆致で道後の風景を描いたのは、南画家・手島石泉(てしませきせん)である。1852(嘉永5)年に越智郡瀬戸村(現在の今治市上浦町)に生まれ、名は正誼(まさよし)という。
 松山藩士であった石泉は、1871(明治4)年の廃藩置県の後、官界に入り、讃岐丸亀警察署長を経て、宇摩郡長を務めた。郡長としての職務のかたわら、川之江の南画家・三好藍石(らんせき、1838~1923年)に師事し、絵画を学んだ。藍石は絵を描く一方で、県会議員や産業開発に取り組んでいたが、その成果を得ることができていなかった。石泉をはじめとする門弟は、そんな藍石に画人として充実した活動をしてもらうため大阪へ出ることをすすめ、藍石が大成するきっかけをつくる。
 石泉は晩年を松山で過ごし、弘願寺で後進の指導にもあたった。1947(昭和22)年、94歳でこの世を去り、愛媛県における南画の最後の担い手と称されている。
 淡黄色を基調とした着彩山水画を得意としていた石泉の作品は、独自の表現で描かれており大変印象的である。当館でも彼の作品を収蔵しており、今回は石泉が92歳の時に描いた道後の風景画を紹介したい。
 「道後を描いた作品」と聞くと、多くの方は道後温泉本館を思い浮かべるかもしれない。しかし、石泉がメインに描いたのは、玉の石である。画面の中央に、一本松とともに柵に囲われた玉の石が描かれている。玉の石は現在も道後温泉本館の北側にあり、柄杓(ひしゃく)で湯をかけて祈ると、願いがかなうとされている。
 画面右側には3階建ての道後温泉本館が描かれ、2階には休憩している人物が見える。玉の石の近くには、湯かごのような物を持つ着物姿の女性や、これから温泉に入るため本館に向かう人々の姿もある。建物や人々と比較すると、玉の石はずいぶんと大きく描かれているが、この誇張表現もまた、作品の魅力のひとつである。
 この道後の風景以外に、松山城や石手寺、三津浜、肱川等、92歳の石泉が描いた作品が残っている。これらについては、またの機会に紹介したい。

(主任学芸員 甲斐 未希子)

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