所蔵品の目録代わりに
大洲藩主加藤家絵画の縮図
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- 大洲藩主加藤家所蔵絵画の縮図。右下の絵は、狩野探幽が描いた富士図(県歴史文化博物館蔵)
1615(慶長20)年に大坂夏の陣が終わると、太平の世が到来する。「徳川の平和」とも呼ばれる江戸時代、本来は武人である大名からも学問や文芸などの文化に傾倒していく者が現れる。伊予の大名では、大洲藩主加藤家が絵画好きとして知られる。
加藤家と絵画との関わりは、3代藩主加藤泰恒にさかのぼる。泰恒は幕府奥絵師の狩野常信に師事、自ら絵筆を執って学んでいる。初期の大洲藩主や藩士の逸話などを集めた「温故集」には、元禄のころに仙洞御所の霊元上皇から泰恒に求めがあり、花鳥を描いた六曲一双屛風(びょうぶ)と春夏秋の富士山を描いた三幅の掛け軸を献上したことが記されている。富士図の制作にあたり、泰恒は板倉重種から狩野探幽筆の富士図八幅を借り出している。それは、重種の父親である重矩が京都所司代であった時、探幽に依頼して描かせたもので、さまざまなバリエーションの富士を描いた探幽に学びながら、泰恒は自らの富士図を完成させたものと思われる。
泰恒以降も、泰恒六男で、江戸で旗本となり、絵師としても有名になった加藤文麗、文麗の長男で、本家に養子に入り6代藩主となった加藤泰衑(やすみち)など、加藤家からは絵画をたしなむ人物が現れている。歴代が絵画を愛好した加藤家だが、それではどのような絵画を収集したのであろうか。所蔵品は散逸して見ることができないが、それを知る手掛かりとなる資料がある。
その資料には、「加藤家蔵品 若宮養徳先生筆写 狩野家及外諸大家銘品」と後筆で記された表紙が付けられている。若宮養徳は、泰衑に画才を見いだされ、江戸の木挽町狩野家で学び、大洲藩の御用絵師となっている。御用絵師の仕事は、藩主の作画指導、作品の鑑定、贈答品の制作など多岐に及ぶが、大名家が所蔵する絵画の管理もその一つであった。本資料は加藤家が所蔵する絵画を養徳が縮図にしたものであるが、写真がない時代、所蔵品のカタログ代わりに作成されたのであろう。
画家については、江戸狩野派の始祖、探幽をはじめ、尚信、常信・栄信などの木挽町狩野、山楽・山雪・永納などの京狩野の作品がそろっている。狩野派以外の画家の作品も含まれているが、狩野派の作品を系統立てて収集しているのが特徴である。多様な画題の中でも、富士図が八幅もあるのが目立つ。参勤交代での江戸との往復で何度も目にする富士山。大名にとって最もなじみのある人気の画題であったことがわかる。
加藤家と絵画との関わりは、3代藩主加藤泰恒にさかのぼる。泰恒は幕府奥絵師の狩野常信に師事、自ら絵筆を執って学んでいる。初期の大洲藩主や藩士の逸話などを集めた「温故集」には、元禄のころに仙洞御所の霊元上皇から泰恒に求めがあり、花鳥を描いた六曲一双屛風(びょうぶ)と春夏秋の富士山を描いた三幅の掛け軸を献上したことが記されている。富士図の制作にあたり、泰恒は板倉重種から狩野探幽筆の富士図八幅を借り出している。それは、重種の父親である重矩が京都所司代であった時、探幽に依頼して描かせたもので、さまざまなバリエーションの富士を描いた探幽に学びながら、泰恒は自らの富士図を完成させたものと思われる。
泰恒以降も、泰恒六男で、江戸で旗本となり、絵師としても有名になった加藤文麗、文麗の長男で、本家に養子に入り6代藩主となった加藤泰衑(やすみち)など、加藤家からは絵画をたしなむ人物が現れている。歴代が絵画を愛好した加藤家だが、それではどのような絵画を収集したのであろうか。所蔵品は散逸して見ることができないが、それを知る手掛かりとなる資料がある。
その資料には、「加藤家蔵品 若宮養徳先生筆写 狩野家及外諸大家銘品」と後筆で記された表紙が付けられている。若宮養徳は、泰衑に画才を見いだされ、江戸の木挽町狩野家で学び、大洲藩の御用絵師となっている。御用絵師の仕事は、藩主の作画指導、作品の鑑定、贈答品の制作など多岐に及ぶが、大名家が所蔵する絵画の管理もその一つであった。本資料は加藤家が所蔵する絵画を養徳が縮図にしたものであるが、写真がない時代、所蔵品のカタログ代わりに作成されたのであろう。
画家については、江戸狩野派の始祖、探幽をはじめ、尚信、常信・栄信などの木挽町狩野、山楽・山雪・永納などの京狩野の作品がそろっている。狩野派以外の画家の作品も含まれているが、狩野派の作品を系統立てて収集しているのが特徴である。多様な画題の中でも、富士図が八幅もあるのが目立つ。参勤交代での江戸との往復で何度も目にする富士山。大名にとって最もなじみのある人気の画題であったことがわかる。
(学芸課長 井上 淳)
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