誇りと再起の意志表れ
一条兼定宛行状
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- 一条兼定宛行状、(1577、78年ごろか?)4月上旬=県歴史文化博物館蔵
中世の西南四国は、実は京都の公家と結び付きが深い。西園寺家の宇和荘、一条家の幡多荘、そして戦国時代の伊予西園寺氏や土佐一条氏の地域支配。土佐一条氏は南予へも進出を図り、4代兼定も喜多郡大津(大洲)の宇都宮豊綱の娘を妻とし、宇都宮氏支援のため出兵したことで鳥坂合戦に発展するなど、南予に深く関与した。
本文書は、兼定から喜多郡高森城(大洲市平野町)の城主梶谷中務丞(なかつかさのじょう、景雄)へ、懇意の謝礼として予土国境の土佐国幡多郡下山郷の下家地内(四万十市西土佐)に所領を与える約束をした文書である。
年代記載はなく、梶谷氏の懇意などの具体的な背景を読み取ることも難しい。しかし、梶谷家の家伝に景雄の家督相続が1576(天正4)年5月以降と伝わることや、景雄が官途名を中務丞から中務少輔へ改称する時期は、景雄宛て文書に見られる河野通直の花押形状などから遅くとも1579(天正7)年3月以前に推定されることなどから、4月の本文書は1577、78(天正5、6)年ごろに絞られる可能性がある。
兼定は、1574(天正2)年に土佐を追放され、翌1975(天正3)年に渡川合戦で長宗我部氏に敗退。その後、南予・宇和海の戸島に逃れ住んだ。そのころに、梶谷氏から何らかの懇意を受けたのであろう。
上質な雁皮紙(がんぴし)を使っており、不遇の時代にも、摂関家一条家としての誇りがうかがえる。また、本拠幡多郡で具体的な所領を約束する姿は、いずれ再起を果たそうという兼定の意志の表れのようでもある。本文中の「他言あるべからず」との文言も興味深く、単に特別扱いの意味だけではなく、結束の密約の様相をもにおわせる。兼定が土佐を離れた後も、南予に支援勢力が存在したことを物語っている。しかし、兼定のその後を知る現代の目線からすると、この約束が空手形に終わったことは想像に難くない。
なお、一条氏の文書は、当主に代わり家司(けいし、家政職員)が意思を奉じて発給することが多く、兼定の場合も署名や花押を記す文書は極めて珍しい。本文書は、兼定の署名と花押がそろう唯一の事例としても貴重な文書である。
本文書は、兼定から喜多郡高森城(大洲市平野町)の城主梶谷中務丞(なかつかさのじょう、景雄)へ、懇意の謝礼として予土国境の土佐国幡多郡下山郷の下家地内(四万十市西土佐)に所領を与える約束をした文書である。
年代記載はなく、梶谷氏の懇意などの具体的な背景を読み取ることも難しい。しかし、梶谷家の家伝に景雄の家督相続が1576(天正4)年5月以降と伝わることや、景雄が官途名を中務丞から中務少輔へ改称する時期は、景雄宛て文書に見られる河野通直の花押形状などから遅くとも1579(天正7)年3月以前に推定されることなどから、4月の本文書は1577、78(天正5、6)年ごろに絞られる可能性がある。
兼定は、1574(天正2)年に土佐を追放され、翌1975(天正3)年に渡川合戦で長宗我部氏に敗退。その後、南予・宇和海の戸島に逃れ住んだ。そのころに、梶谷氏から何らかの懇意を受けたのであろう。
上質な雁皮紙(がんぴし)を使っており、不遇の時代にも、摂関家一条家としての誇りがうかがえる。また、本拠幡多郡で具体的な所領を約束する姿は、いずれ再起を果たそうという兼定の意志の表れのようでもある。本文中の「他言あるべからず」との文言も興味深く、単に特別扱いの意味だけではなく、結束の密約の様相をもにおわせる。兼定が土佐を離れた後も、南予に支援勢力が存在したことを物語っている。しかし、兼定のその後を知る現代の目線からすると、この約束が空手形に終わったことは想像に難くない。
なお、一条氏の文書は、当主に代わり家司(けいし、家政職員)が意思を奉じて発給することが多く、兼定の場合も署名や花押を記す文書は極めて珍しい。本文書は、兼定の署名と花押がそろう唯一の事例としても貴重な文書である。
(専門学芸員 山内 治朋)
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