家3割被災 学び備えて
安政南海地震の被害伝える文書
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- 外海浦の地震記録「此度大地震大汐ニ付訴書并諸願書一巻」=県歴史文化博物館蔵
安政南海地震については、津波により土佐で大きな被害があったことは知られているが、隣接する伊予の宇和海沿岸部の被害はどうだったのであろうか。今回紹介するのは、そのエリアに位置する外海浦(愛南町の南側沿岸部)の被害状況が記された記録(以下、「諸願書一巻」と略称)である。
冒頭には、外海浦における地震発生時の状況が記されている。地震の発生時刻は、嘉永7(1854)年11月5日の夕七ツ時(午後4時ごろ)。前代未聞の大地震で、津波が押し寄せて村人は高いところにあった畑や二つの寺に避難、なんとか命が助かっている。
数日間はさまざまな場所に仮小屋を建てて、昼夜の寒さをしのぎ、村人は神仏に祈ることしかできなかった。毎日昼夜絶えず余震が続き、終わりがみえないので、各自の判断で帰宅することとなり、居宅の修繕用に近村から提供された真縄・筵(むしろ)・菰俵(こもだわら)が配られている。それらで応急措置をして自宅に帰ったが、その後も大きな地震が起こるという風評もあり、再び自宅を離れて高いところで避難生活を送る者も多かった。発災直後の村人の気持ちを「昼夜心の不安事」と表現している。
「諸願書一巻」で注目されるのは、冒頭の文章に続き、外海浦が藩に提出した被害報告が筆写されていることである。この報告により、外海浦において居宅・納屋・納蔵(年貢米105俵)・久良砲台の玉薬蔵に被害があったことがわかる。居宅については、津波で押し流されたり、地震で破損したりして住めなくなった家を数えている。その合計は266軒。明治初期の被害集落の家数合計852軒で計算すると、31.2%が被災したことになる。
人的な被害については、「人之損しは深浦之者舟中ニて壱人相果ル」と記された記録があることが既に紹介されていたが、「諸願書一巻」には、宮山浦の馬吉が「流死」したため青蝋運上銀の支払い延期を願い出た文書が収められている。地元では調査が行われ、安政南海地震の年月日が没年となった嶋屋馬吉という人物の墓が見つかっていた。馬吉が地震の犠牲者であったことがこの願書によっても裏付けられたことになる。
この(2025年)3月に東日本大震災から14年になる。古文書から学ぶことで、近いうちに起きるとされる南海トラフ巨大地震に備えたい。
冒頭には、外海浦における地震発生時の状況が記されている。地震の発生時刻は、嘉永7(1854)年11月5日の夕七ツ時(午後4時ごろ)。前代未聞の大地震で、津波が押し寄せて村人は高いところにあった畑や二つの寺に避難、なんとか命が助かっている。
数日間はさまざまな場所に仮小屋を建てて、昼夜の寒さをしのぎ、村人は神仏に祈ることしかできなかった。毎日昼夜絶えず余震が続き、終わりがみえないので、各自の判断で帰宅することとなり、居宅の修繕用に近村から提供された真縄・筵(むしろ)・菰俵(こもだわら)が配られている。それらで応急措置をして自宅に帰ったが、その後も大きな地震が起こるという風評もあり、再び自宅を離れて高いところで避難生活を送る者も多かった。発災直後の村人の気持ちを「昼夜心の不安事」と表現している。
「諸願書一巻」で注目されるのは、冒頭の文章に続き、外海浦が藩に提出した被害報告が筆写されていることである。この報告により、外海浦において居宅・納屋・納蔵(年貢米105俵)・久良砲台の玉薬蔵に被害があったことがわかる。居宅については、津波で押し流されたり、地震で破損したりして住めなくなった家を数えている。その合計は266軒。明治初期の被害集落の家数合計852軒で計算すると、31.2%が被災したことになる。
人的な被害については、「人之損しは深浦之者舟中ニて壱人相果ル」と記された記録があることが既に紹介されていたが、「諸願書一巻」には、宮山浦の馬吉が「流死」したため青蝋運上銀の支払い延期を願い出た文書が収められている。地元では調査が行われ、安政南海地震の年月日が没年となった嶋屋馬吉という人物の墓が見つかっていた。馬吉が地震の犠牲者であったことがこの願書によっても裏付けられたことになる。
この(2025年)3月に東日本大震災から14年になる。古文書から学ぶことで、近いうちに起きるとされる南海トラフ巨大地震に備えたい。
(学芸課長 井上 淳)
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