弥生の生活 貝類も採集
宇和島の嘴状礫器
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- 長松寺城跡出土の嘴状礫器=県歴史文化博物館保管
一見するとただの石。よく見ると、石の片側を打ち欠き、とがらせている。大きい方は長さ13.2cm、小さい方は長さ7.8cmで手のひらに包めるくらいの大きさ。これらは、弥生時代に使われた貝を採る道具である。
礫(れき)を打ち欠いてつくる道具を礫器(れっき)という。石でつくる最もシンプルな道具である。当資料は、鳥の嘴(くちばし)に形が似ていることから「嘴状礫器」と呼ばれている。片方のみとがっている形状から「単角状礫器」の呼び名もある。
嘴状礫器は、主に九州沿岸部の縄文時代の遺跡から発見される。四国においては、宇和島市や高知県四万十市など、西南部の弥生時代の遺跡から発見されている。発見地の多くが貝殻の出土を伴う遺跡であることから、貝を採る道具と考えられている。とがった部分に磨滅が多く、反対側にはたたいた痕跡がある場合もあり、貝の中でも、アワビやカキのような岩礁性の貝を、岩から剥がし採る道具と考えられている。
当資料が発見されたのは、宇和島市保田の長松寺城跡である。来村川西岸、標高約80mの尾根上に立地し、現在の河口からは約3km離れているが、弥生時代にはもう少し近く約2kmの距離だったとされ、海に近い高地にある遺跡といえる。長松寺城は中世の山城で、築城の際の盛土の中から、嘴状礫器、石鏃(せきぞく)、弥生時代後期ごろの土器片が発見された。盛り土の土を持ってきたであろう尾根の上部に弥生時代の遺跡があると想定されているが、発掘調査の範囲外で調査はされていない。
当地ではどのような生活が営まれていたのだろうか? ここで参考になるのが、同じ弥生時代の遺跡でよく似た立地の拝鷹山貝塚の愛媛大と宇和島市教育委員会による調査成果である。この貝塚は、長松寺城跡から約5km離れた沿岸部の山上にあり、嘴状礫器のほか、カキを中心とする貝殻などが発見されている。嘴状礫器や貝類の存在からは沿岸部での貝の採集が想定され、少量の石鏃もあることから、山での狩りも行っていたとされている。長松寺城跡も沿岸部の山上の遺跡で、嘴状礫器が存在することから、山と海を利用した人々の暮らしがあった可能性がある。
弥生時代と聞くと稲作主体の暮らしだったイメージが強いが、嘴状礫器からは、それぞれの立地に応じた弥生時代の暮らしの多様性がうかがえる。
礫(れき)を打ち欠いてつくる道具を礫器(れっき)という。石でつくる最もシンプルな道具である。当資料は、鳥の嘴(くちばし)に形が似ていることから「嘴状礫器」と呼ばれている。片方のみとがっている形状から「単角状礫器」の呼び名もある。
嘴状礫器は、主に九州沿岸部の縄文時代の遺跡から発見される。四国においては、宇和島市や高知県四万十市など、西南部の弥生時代の遺跡から発見されている。発見地の多くが貝殻の出土を伴う遺跡であることから、貝を採る道具と考えられている。とがった部分に磨滅が多く、反対側にはたたいた痕跡がある場合もあり、貝の中でも、アワビやカキのような岩礁性の貝を、岩から剥がし採る道具と考えられている。
当資料が発見されたのは、宇和島市保田の長松寺城跡である。来村川西岸、標高約80mの尾根上に立地し、現在の河口からは約3km離れているが、弥生時代にはもう少し近く約2kmの距離だったとされ、海に近い高地にある遺跡といえる。長松寺城は中世の山城で、築城の際の盛土の中から、嘴状礫器、石鏃(せきぞく)、弥生時代後期ごろの土器片が発見された。盛り土の土を持ってきたであろう尾根の上部に弥生時代の遺跡があると想定されているが、発掘調査の範囲外で調査はされていない。
当地ではどのような生活が営まれていたのだろうか? ここで参考になるのが、同じ弥生時代の遺跡でよく似た立地の拝鷹山貝塚の愛媛大と宇和島市教育委員会による調査成果である。この貝塚は、長松寺城跡から約5km離れた沿岸部の山上にあり、嘴状礫器のほか、カキを中心とする貝殻などが発見されている。嘴状礫器や貝類の存在からは沿岸部での貝の採集が想定され、少量の石鏃もあることから、山での狩りも行っていたとされている。長松寺城跡も沿岸部の山上の遺跡で、嘴状礫器が存在することから、山と海を利用した人々の暮らしがあった可能性がある。
弥生時代と聞くと稲作主体の暮らしだったイメージが強いが、嘴状礫器からは、それぞれの立地に応じた弥生時代の暮らしの多様性がうかがえる。
(学芸員 三浦 彩)
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