調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第183回
2025.2.8

江戸時代 200基余り建立

真念の遍路道標石

真念の遍路道標石(下は拡大図)」。「左」の文字が指印に改刻されている =県歴史文化博物館蔵
 本資料は江戸時代前期に真念が建てた遍路道標石で、四国八十八カ所霊場の第62番札所宝寿寺(西条市)の境内に保存され、当館に寄託されたものである。
 真念は江戸時代前期の僧で大坂の寺島(現大阪市西区)を本拠として、四国遍路を20回以上行ったとされる。現存最古の四国遍路ガイドブック『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』を1687(貞享4)年に刊行、遍路の休憩・宿泊所として真念庵の開設、迷いやすい遍路道の分岐点に遍路道標石(真念標石)を200基余り建てるなど、江戸時代前期における四国遍路の普及に多大な貢献をした。
 真念道標石の一般的な特徴としては形状が角すい形で、後世の道標石に比較すると小ぶりなことがあげられる。案内表示は道標石の正面上部に分かれ道の方向「左・右」を示し、中央に「遍ん路みち」、下部に「願主真念」と刻まれているものが多い。左側面は「為父母六親」、その下に道標石を設置するために資金等を寄進した施主の在所と名前を記す。六親(ろくしん・りくしん)とは最も身近な親族や親族全体をさす。右側面には「(ユ)(梵字=ぼんじ) 南無大師遍照金剛」と刻まれ、弘法大師をたたえている。
 本資料の場合、花崗(こう)岩製の角すい形で幅15cm、奥行15.5cm、高さ83.5cmを測る。碑文の内容をみると、正面に「(右方向を指した指印) 遍ん路みち 願主 真念」とある。しかしよく観察すると、正面の指印は「左」という文字の上から改刻されていることがわかる。
 左面には「為父母六親 施主 江戸本銀町小泉五右衛門」、右面には「(梵字)南無大師遍照金剛」、裏面には「右 一の宮」とある。
 江戸本銀(ほんしろがね)町は東京都中央区の日本橋かいわいで、真念の道標設置活動に江戸の人物が関わっていることがわかる。また、「一の宮」とは一之宮神社の別当寺であった宝寿寺と考えられる。宝寿寺は場所が幾度か移転しており、前述した案内表示の修正はそれによるものと解され、文字でなく視覚的にわかりやすい指印が採用されたと推察される。
 現在、四国内で確認されている真念による遍路道標石はわずか40基に満たない。本資料は真念の活動や江戸時代の四国霊場や遍路道の実態を考える上で大変貴重な資料といえる。

(専門学芸員 今村 賢司)

真念の遍路道標石は、民俗展示室3「四国遍路」で常設展示中。

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