絹地に水彩 句を添える
高浜虚子の肖像画
- 虚子翁画像(画・中澤弘光、賛・高浜虚子)=県歴史文化博物館蔵
今回紹介する収蔵品は、俳人・高浜虚子の肖像画である。本作品は掛け軸に仕立てられており、画家・中沢弘光が虚子の肖像画を描き、虚子自身が句を添えている。
虚子はご存じの方が多いように、1874(明治7)年松山市出身の俳人・小説家で、本名は清という。同級生である河東碧梧桐を通じて正岡子規と知り合い、後に上京して子規に師事する。俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、夏目漱石の「吾輩は猫である」を同誌に掲載したことでも知られている。また、虚子は俳人としてだけでなく、写生文小説の分野でも高く評価され、1954(昭和29)年、俳人として初めて文化勲章を受章した。
虚子の肖像画を描いた画家・中沢は虚子と同年に東京都に生まれる。曽山(大野)幸彦や黒田清輝に師事し、白馬会の創立に参加するなど、西洋画の草創期を支えた画家である。また、1912(大正元)年には、愛媛県出身の杉浦非水らと光風会を結成する。
さて、本作品の制作年代は不明であるが、虚子が書いた俳句に注目してみよう。虚子が著した「句日記」の1949(昭和24)年12月に、この句を確認することができる。「笹啼に対す二日の主哉」という句で、12月18日に翌年の新年俳句会の放送録音のために詠まれた。正月に紹介するのにぴったりの句である。「笹鳴き」とは冬の季語で、ウグイスの子どもがさえずりの練習をしている様を表し、「二日」とは正月二日を指す。冬から春への移ろいを感じられる句となっている。
絹地に水彩で描かれた虚子の姿は、穏やかで、少しすましたような表情のようにも見える。この肖像画は句が詠まれた1949年以降から、虚子が死去する1959(昭和34)年の間に描かれたと考えられるため、75歳以降の姿だろう。なお、中沢は、虚子の喜寿(77歳)の時に油絵の肖像画を描いていることから、本作品もその一環として描かれたものかもしれない。
虚子はご存じの方が多いように、1874(明治7)年松山市出身の俳人・小説家で、本名は清という。同級生である河東碧梧桐を通じて正岡子規と知り合い、後に上京して子規に師事する。俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、夏目漱石の「吾輩は猫である」を同誌に掲載したことでも知られている。また、虚子は俳人としてだけでなく、写生文小説の分野でも高く評価され、1954(昭和29)年、俳人として初めて文化勲章を受章した。
虚子の肖像画を描いた画家・中沢は虚子と同年に東京都に生まれる。曽山(大野)幸彦や黒田清輝に師事し、白馬会の創立に参加するなど、西洋画の草創期を支えた画家である。また、1912(大正元)年には、愛媛県出身の杉浦非水らと光風会を結成する。
さて、本作品の制作年代は不明であるが、虚子が書いた俳句に注目してみよう。虚子が著した「句日記」の1949(昭和24)年12月に、この句を確認することができる。「笹啼に対す二日の主哉」という句で、12月18日に翌年の新年俳句会の放送録音のために詠まれた。正月に紹介するのにぴったりの句である。「笹鳴き」とは冬の季語で、ウグイスの子どもがさえずりの練習をしている様を表し、「二日」とは正月二日を指す。冬から春への移ろいを感じられる句となっている。
絹地に水彩で描かれた虚子の姿は、穏やかで、少しすましたような表情のようにも見える。この肖像画は句が詠まれた1949年以降から、虚子が死去する1959(昭和34)年の間に描かれたと考えられるため、75歳以降の姿だろう。なお、中沢は、虚子の喜寿(77歳)の時に油絵の肖像画を描いていることから、本作品もその一環として描かれたものかもしれない。
(主任学芸員 甲斐 未希子)
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