旧領主への敬慕伝える
西園寺公広坐像
- 西園寺公広坐像=1867年、光教寺蔵、県歴史文化博物館保管
2024年を締めくくる連載となった。今年は平安貴族や藤原氏、とりわけ藤原道長を取り巻く人々が関心を集めていたように思う。藤原氏は、その後の武家の世になっても、公家の最大勢力として権力の中枢を担い続けた。その中に、伊予と深く関わった一族がいる。
道長の叔父、公季に始まる閑院流に属する西園寺氏である。伊予の知行国主で、宇和荘なども領有したが、何より濃厚な結びつきは、南北朝時代に一族が下向し、室町・戦国時代に宇和郡で地域権力化したことである。伊予西園寺氏は、最終的に戦国乱世を生き抜き、豊臣の時代まで存続した。その最後の当主が公広である。
本像は、菩提寺の光教寺(西予市宇和町)に伝来する公広の坐像。現在は、同寺から徒歩で約10分と至近で、伊予西園寺氏のお膝元でもあり、浅からぬ縁がある当館で保管している。歴史上の人物肖像といえば、肖像画のイメージもあろう。伊予の戦国武将でも肖像画は何点か残されているが、立体の木像となると極めて珍しい。伊予西園寺氏の関連資料が少ない中、本像は同氏に関する唯一の肖像資料でもある。
といっても、成立は公広没後280年たった幕末である。厨子(ずし)の墨書には、1867(慶応3)年に宇和盆地の有志が作らせ、本拠黒瀬城のあった黒瀬山に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)り、黒瀬神社と称したとある。しかし、1936(昭和11)年に社殿が老朽化したため、後西園寺公広卿記念会を設立し保管したとある。幕末の地域住民の思いが推し量れる。
木像に和紙を貼り彩色。剥離や退色もあるが、水色の直衣(のうし)に白色であろう指貫(さしぬき)を着用しているとみられる。破損も多く、両手の位置が上下にずれているのは笏(しゃく)を持つしぐさだが、笏は現存しない。冠の痕跡も残すが、髻(もとどり)にかぶせる巾子(こじ)や、後頭部の纓(えい)などは失われている。一方で、腰には太刀を携え、よく見ると胸と肩には京都の西園寺本家以来の家紋である三つ巴(どもえ)が金色であしらわれている。完成時は、さぞ鮮やかで見事な坐像だっただろう。
伊予西園寺氏は、1587(天正15)年に公広が没したことで、歴史から姿を消した。しかし、地元ではかつての領主として、今もなお関心が寄せられ続けている。時代を超えた敬慕の念を伝える坐像ともいえよう。
道長の叔父、公季に始まる閑院流に属する西園寺氏である。伊予の知行国主で、宇和荘なども領有したが、何より濃厚な結びつきは、南北朝時代に一族が下向し、室町・戦国時代に宇和郡で地域権力化したことである。伊予西園寺氏は、最終的に戦国乱世を生き抜き、豊臣の時代まで存続した。その最後の当主が公広である。
本像は、菩提寺の光教寺(西予市宇和町)に伝来する公広の坐像。現在は、同寺から徒歩で約10分と至近で、伊予西園寺氏のお膝元でもあり、浅からぬ縁がある当館で保管している。歴史上の人物肖像といえば、肖像画のイメージもあろう。伊予の戦国武将でも肖像画は何点か残されているが、立体の木像となると極めて珍しい。伊予西園寺氏の関連資料が少ない中、本像は同氏に関する唯一の肖像資料でもある。
といっても、成立は公広没後280年たった幕末である。厨子(ずし)の墨書には、1867(慶応3)年に宇和盆地の有志が作らせ、本拠黒瀬城のあった黒瀬山に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)り、黒瀬神社と称したとある。しかし、1936(昭和11)年に社殿が老朽化したため、後西園寺公広卿記念会を設立し保管したとある。幕末の地域住民の思いが推し量れる。
木像に和紙を貼り彩色。剥離や退色もあるが、水色の直衣(のうし)に白色であろう指貫(さしぬき)を着用しているとみられる。破損も多く、両手の位置が上下にずれているのは笏(しゃく)を持つしぐさだが、笏は現存しない。冠の痕跡も残すが、髻(もとどり)にかぶせる巾子(こじ)や、後頭部の纓(えい)などは失われている。一方で、腰には太刀を携え、よく見ると胸と肩には京都の西園寺本家以来の家紋である三つ巴(どもえ)が金色であしらわれている。完成時は、さぞ鮮やかで見事な坐像だっただろう。
伊予西園寺氏は、1587(天正15)年に公広が没したことで、歴史から姿を消した。しかし、地元ではかつての領主として、今もなお関心が寄せられ続けている。時代を超えた敬慕の念を伝える坐像ともいえよう。
(専門学芸員 山内 治朋)
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