調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第178回
2024.11.23

「芸予海人」の生活示す

松山平野の製塩土器

松山市南吉田南代遺跡2次調査で出土した製塩土器=県教育委員会蔵
 筆者が松山外環状道路空港線に関わったのは前職に在籍していた約10年前にさかのぼる。記憶をひもとくと、遺跡がほとんどないこの地域で試掘調査をしても遺跡・遺物には当たらないだろうと思っていた。しかし、先行して松山市教育委員会が行った試掘調査では、中世の土器や古墳時代の須恵器が出土しているという情報が入っていた。それから数年かけて、試掘調査に数十回通い、遺跡の有無の確認作業を繰り返した。
 沖積低地であり、重機で掘削して深さ1m近く砂の層を検出し、遺跡が無いことを確認することが大半であったが、南吉田南代遺跡、東垣生八反地遺跡、余戸柳井田遺跡、余戸中の孝遺跡の4カ所では、古墳時代、中世の遺物を確認し、正式な発掘調査が実施された。
 一番印象に残っているのは試掘調査の最終段階で確認した南吉田南代遺跡である。掘削深度が約4m近くの深い試掘溝を掘削していると、古墳時代初頭の土師器(はじき)の破片が良好な状態で出土する土層を確認した。先に試掘調査を行っていた市教委の調査でも同時期の土器が確認されていた。当時はなぜ、こんな深いところから土器が出土するのか悩んでいたが、数年後に実施された発掘調査では、地表下約4m付近の深い場所にある環境変化の少ない湿潤な土壌から、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての土器群が、良好な状態で出土している。
 また、今回紹介する製塩土器のように海岸部に暮らした人々の生活を示す遺物も出土している。
 見つかったのは、外面にタタキ痕跡が認められることから、今治平野・芸予諸島周辺に多い、脚台付製塩土器の脚台部分であることが分かる。土器による塩づくりは、①高い濃度の海水(鹹水=かんすい)を得る採鹹(さいかん)②鹹水を製塩土器で煮詰め、結晶塩を得る煎熬(せんごう)③結晶した塩を焼いて、不純物を取り除く焼塩という工程で行われた。この土器は、煎熬の過程で使用された土器で、本遺跡近くで塩づくりが行われたのか、今治平野・芸予諸島周辺で使用された土器がここまで運ばれたのかは現状では分からない。
 しかし、松山平野では伊予市上三谷篠田遺跡等数遺跡のみで、芸予諸島周辺で製作された製塩土器が確認されており、「芸予海人」の活動の一端と考える。このことからも当時の「芸予海人」の交易活動として「塩づくり」があったことがうかがえる。

(専門学芸員 冨田 尚夫)

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