「伊予国38万石」裏付け
将軍秀忠の領知判物
- 徳川秀忠領知判物(加藤嘉明宛)=1617年9月5日、県歴史文化博物館蔵
徳川将軍は諸大名との主従関係を確認するため、節目ごとに知行を承認した。本文書もその1通で、2代将軍秀忠が加藤嘉明の知行をあらためて認めた文書。判物(はんもつ)は、「花押」「判」などと呼ばれるサインを自ら墨書して与える、まさしく「お墨付き」である。
1615(慶長20)年の大坂夏の陣、1616(元和2)年の大御所家康の他界を経た1617(元和3)年、秀忠は諸大名に領知判物(りょうちはんもつ)や朱印状を与え、将軍秀忠を頂点とする武家政権の体制強化を図った。豊臣恩顧大名の嘉明も、徳川支配に組み込まれていったのである。
伊予国の温泉・和気・伊予・久米・野間・宇摩の6郡10万6千石余、および浮穴・風早・越智・桑村・周布・新居の6郡の内で8万5千石余、合計19万1千石余を与えている。一見、一般的な領知判物の一例のようだが、実は重要な意味を持っている。
1600(慶長5)年の関ケ原合戦で、嘉明と藤堂高虎は徳川方についた恩賞として伊予で加増される。2人は伊予国を半国知行することになり、協定も結んだ。この時、伊予40万石を20万石ずつ折半した、と一般的に理解されている。
気付かれただろうか。嘉明は20万石を拝領したと言われながら、判物は19万石余なのである。まず、17年までの間に1万石もの減封を受けたといった記録はない。
また、判物では、嘉明が全域知行する「6郡」と、他領混在の「6郡の内」を書き分けている。実は、この全域知行「6郡」の石高は、関ケ原合戦後の高虎との協定状などから割り出される石高とほぼ一致している。つまり、合戦後の半国知行をそのまま反映しているとみられ、17世紀初頭の加藤領が約19万石だったことを示す。同時に伊予の半分を与えられた藤堂領も約19万石だったことを表す。
それは、すなわち伊予一国が当時は約38万石だったことをも意味する。実は、江戸時代の早い時期の石高を記すと考えられている記録や絵図にも、伊予は38万1640石余と記されており、本文書はこれを裏付ける一次史料となる。
単に知行のお墨付きだけでなく、加藤嘉明の半国知行の実態を知る上で最も信頼できる史料であり、さらには近世初頭の伊予が実はいまだ40万石に満たない約38万石レベルであったことも、静かに物語っているのである。
1615(慶長20)年の大坂夏の陣、1616(元和2)年の大御所家康の他界を経た1617(元和3)年、秀忠は諸大名に領知判物(りょうちはんもつ)や朱印状を与え、将軍秀忠を頂点とする武家政権の体制強化を図った。豊臣恩顧大名の嘉明も、徳川支配に組み込まれていったのである。
伊予国の温泉・和気・伊予・久米・野間・宇摩の6郡10万6千石余、および浮穴・風早・越智・桑村・周布・新居の6郡の内で8万5千石余、合計19万1千石余を与えている。一見、一般的な領知判物の一例のようだが、実は重要な意味を持っている。
1600(慶長5)年の関ケ原合戦で、嘉明と藤堂高虎は徳川方についた恩賞として伊予で加増される。2人は伊予国を半国知行することになり、協定も結んだ。この時、伊予40万石を20万石ずつ折半した、と一般的に理解されている。
気付かれただろうか。嘉明は20万石を拝領したと言われながら、判物は19万石余なのである。まず、17年までの間に1万石もの減封を受けたといった記録はない。
また、判物では、嘉明が全域知行する「6郡」と、他領混在の「6郡の内」を書き分けている。実は、この全域知行「6郡」の石高は、関ケ原合戦後の高虎との協定状などから割り出される石高とほぼ一致している。つまり、合戦後の半国知行をそのまま反映しているとみられ、17世紀初頭の加藤領が約19万石だったことを示す。同時に伊予の半分を与えられた藤堂領も約19万石だったことを表す。
それは、すなわち伊予一国が当時は約38万石だったことをも意味する。実は、江戸時代の早い時期の石高を記すと考えられている記録や絵図にも、伊予は38万1640石余と記されており、本文書はこれを裏付ける一次史料となる。
単に知行のお墨付きだけでなく、加藤嘉明の半国知行の実態を知る上で最も信頼できる史料であり、さらには近世初頭の伊予が実はいまだ40万石に満たない約38万石レベルであったことも、静かに物語っているのである。
(専門学芸員 山内 治朋)
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