瀬戸内航路発展に貢献
大阪―別府 客船「紫丸」
- 別府行定期客船・紫丸(県歴史文化博物館蔵)
1912(明治45)年5月、大阪商船株式会社(現在の商船三井)は、瀬戸内海を横断する大阪―別府航路を開設した。大阪から神戸や高松、高浜等の港を経由し別府へとつながる航路は、別府温泉の発展を目的として運航された。
大阪商船は、近代の瀬戸内海交通の発展に貢献し、国内外に多くの航路を有した商船会社であり、初代頭取を住友家の初代総理事・広瀬宰平が務めた。大阪―別府航路が開設されたころ、別府は観光地(温泉地)として人気を博していたこともあり、大阪商船もこの航路へ力を注ぎ、多くの人を別府へと運び、現地を盛り上げていった。
今回紹介するのは、1935(昭和10)年ころに発行された絵はがき「別府名所二百景」に含まれていた別府港に着岸している大阪商船の客船を写したものである。よく見ると客船には「むらさき丸」の文字を読み取ることができた。「大阪商船株式会社五十年史」によると、紫丸は1921(大正10)年に「快速力を有する新造船千百噸(トン)」の客船として大阪―別府航路に就航する。
大阪―別府航路は、寄港地や就航船の変更を繰り返しながらも、1929(昭和4)年には5隻の旅客船が就航し、昼夜瀬戸内海を横断していた。当時は、瀬戸内海航路最大級のディーゼル客船として緑丸・菫丸の姉妹船と、紅丸、紫丸、屋島丸が活躍しており、航路の評判は非常によかったという。また「大阪商船株式会社八十年史」では、1936(昭和11)年8月に「豪華ディーゼル客船こがね丸が就航し従来のにしき丸・すみれ丸・くれなゐ丸・むらさき丸の優秀船隊とともに、瀬戸内海交通幹線の偉容は他社の追随を許さず、一般旅客及び遊覧客に満足を与え本航路の名声を高めた」とその繁栄を記している。
大阪商船が誇る人気航路であった大阪―別府航路は、1942(昭和17)年5月に関西汽船の設立とともに、同社に譲渡された。また、関西汽船は後に商船三井の子会社となっている。現在では、商船三井のグループ会社であるフェリーさんふらわあが運航する「さんふらわあ むらさき」が大阪と別府を結ぶ航路で活躍しており、「むらさき」の名を見ることができる。
大阪商船は、近代の瀬戸内海交通の発展に貢献し、国内外に多くの航路を有した商船会社であり、初代頭取を住友家の初代総理事・広瀬宰平が務めた。大阪―別府航路が開設されたころ、別府は観光地(温泉地)として人気を博していたこともあり、大阪商船もこの航路へ力を注ぎ、多くの人を別府へと運び、現地を盛り上げていった。
今回紹介するのは、1935(昭和10)年ころに発行された絵はがき「別府名所二百景」に含まれていた別府港に着岸している大阪商船の客船を写したものである。よく見ると客船には「むらさき丸」の文字を読み取ることができた。「大阪商船株式会社五十年史」によると、紫丸は1921(大正10)年に「快速力を有する新造船千百噸(トン)」の客船として大阪―別府航路に就航する。
大阪―別府航路は、寄港地や就航船の変更を繰り返しながらも、1929(昭和4)年には5隻の旅客船が就航し、昼夜瀬戸内海を横断していた。当時は、瀬戸内海航路最大級のディーゼル客船として緑丸・菫丸の姉妹船と、紅丸、紫丸、屋島丸が活躍しており、航路の評判は非常によかったという。また「大阪商船株式会社八十年史」では、1936(昭和11)年8月に「豪華ディーゼル客船こがね丸が就航し従来のにしき丸・すみれ丸・くれなゐ丸・むらさき丸の優秀船隊とともに、瀬戸内海交通幹線の偉容は他社の追随を許さず、一般旅客及び遊覧客に満足を与え本航路の名声を高めた」とその繁栄を記している。
大阪商船が誇る人気航路であった大阪―別府航路は、1942(昭和17)年5月に関西汽船の設立とともに、同社に譲渡された。また、関西汽船は後に商船三井の子会社となっている。現在では、商船三井のグループ会社であるフェリーさんふらわあが運航する「さんふらわあ むらさき」が大阪と別府を結ぶ航路で活躍しており、「むらさき」の名を見ることができる。
(主任学芸員 甲斐 未希子)
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