空襲に備え家庭に普及
消火手砂弾
- 消火手砂弾=県歴史文化博物館蔵
まもなく終戦の日から79年を迎える。先の大戦では松山、今治、宇和島など県内の主要都市も空襲を受けている。今回はそうした空襲の際に使用された「消火手砂弾(てずなだん)」を紹介する。
「消火手砂弾」と言っても大砲や鉄砲の「弾」ではない。砂が入った陶器製の消火剤である。空襲の際、陶器ごと火の中に投げ入れ、陶器が割れて中の砂が飛散することにより、消火しようとしたものである。本資料は大洲市の方から寄贈された。大洲は空襲をまぬがれたため、使用されなかったのだろう。現在も陶器の中にはわずかながら砂が残っている。
当時の政府は空襲についてどのように考えていたのだろうか。内閣直属の情報機関である情報局が発行した雑誌「週報」から探ってみよう。1941(昭和16)年9月3日発行号では「家庭防空の手引」を特集し、焼夷(しょうい)弾に対する対応が記載されている。
それによると、各家庭で100リットル程度の防火水槽に8リットル程度のバケツを2~3個、砂や土を2~3斗(36~54リットル)以上、筵(むしろ)を3~4枚準備しておき、空襲で焼夷弾が落ちた際はぬれ筵、ぬれ布団、土や砂をかぶせ、周囲や天井に水をかけて延焼を防ぐように指導している。
焼夷弾の種類には油脂弾のほか、エレクトロン弾、黄燐(おうりん)弾があるが、いずれにしても消火の初期対応としては砂や土などをかぶせることが基本とされていた。このような指導を背景に、本資料も各家庭に普及したのだろう。
しかし、同手引では敵機数を大都市に対して昼間20~30機、夜間十数機、中小都市に対して数機と想定し、連日連夜の猛爆撃は考えていない。「一死奉公、団結を強くし、退却を考へずに敵弾と戦へば被害は殆(ほと)んどない」と精神主義的な記載が多々見られる。
では、「消火手砂弾」は実際の空襲に対してどれほどの効果があったのであろうか。1945年7月26日の松山空襲では約130機のB29が襲った。想定をはるかに超えた空襲のなかで消火が追い付かず、多くの人が犠牲になっている。終戦の日を前に、あらためて「消火手砂弾」を通じて平和の尊さを考えたい。
「消火手砂弾」と言っても大砲や鉄砲の「弾」ではない。砂が入った陶器製の消火剤である。空襲の際、陶器ごと火の中に投げ入れ、陶器が割れて中の砂が飛散することにより、消火しようとしたものである。本資料は大洲市の方から寄贈された。大洲は空襲をまぬがれたため、使用されなかったのだろう。現在も陶器の中にはわずかながら砂が残っている。
当時の政府は空襲についてどのように考えていたのだろうか。内閣直属の情報機関である情報局が発行した雑誌「週報」から探ってみよう。1941(昭和16)年9月3日発行号では「家庭防空の手引」を特集し、焼夷(しょうい)弾に対する対応が記載されている。
それによると、各家庭で100リットル程度の防火水槽に8リットル程度のバケツを2~3個、砂や土を2~3斗(36~54リットル)以上、筵(むしろ)を3~4枚準備しておき、空襲で焼夷弾が落ちた際はぬれ筵、ぬれ布団、土や砂をかぶせ、周囲や天井に水をかけて延焼を防ぐように指導している。
焼夷弾の種類には油脂弾のほか、エレクトロン弾、黄燐(おうりん)弾があるが、いずれにしても消火の初期対応としては砂や土などをかぶせることが基本とされていた。このような指導を背景に、本資料も各家庭に普及したのだろう。
しかし、同手引では敵機数を大都市に対して昼間20~30機、夜間十数機、中小都市に対して数機と想定し、連日連夜の猛爆撃は考えていない。「一死奉公、団結を強くし、退却を考へずに敵弾と戦へば被害は殆(ほと)んどない」と精神主義的な記載が多々見られる。
では、「消火手砂弾」は実際の空襲に対してどれほどの効果があったのであろうか。1945年7月26日の松山空襲では約130機のB29が襲った。想定をはるかに超えた空襲のなかで消火が追い付かず、多くの人が犠牲になっている。終戦の日を前に、あらためて「消火手砂弾」を通じて平和の尊さを考えたい。
(専門学芸員 平井 誠)
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