調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第166回
2024.5.25

出産形態の変化伝える

産婆記録

産婆記録(1922~23年、縦23.0cm、横16.3cm。県歴史文化博物館蔵)
 自宅で子どもを産むのが当たり前だった時代、「トリアゲバアサン」や「お産婆さん」と呼ばれる女性が、出産の介助をし、子どものへその緒を処置して産湯を使わせ、後産の処理をしてきた。
 本資料は1921(大正10)年、26歳の時に今治市で産婆を開業した女性が記録したもので、妊産婦に関する情報が1ページに1人分記されている。記載事項は、①妊産婦の住所・氏名・年齢 ②受付年月日 ③最終月経閉止月日 ④初産・経産婦、妊娠中の経過や既往症 ⑤生産・早産・流産・死産、男女 ⑥応急手当の状況 ⑦正常分娩・異常分娩 ⑧分娩年月日の8項目に及ぶ。余白には、最終月経日から計算した出産予定日が小さく書かれている。
 1923年5月28日から1924年11月27日までの約1年半の取扱件数が188件、このうち受付日と分娩日が同一、もしくは翌日、つまり出産直前に「飛び込み」で依頼を受けたケースが15件ある。現代のように、女性が妊娠した後に定期的に健診を受ける制度はなかったため、受付日より2か月以内に出産となったケースも76件と、全体の42%を占めている。
 資料の「応急手当の状況」の欄にはほとんど「ナシ」と記載されているが、「産道狭窄(きょうさく)」や「出血」のため「医師ヲ迎」えたケースが6件、入院したケースが1件確認できた。子孫の方への聞き取り調査によると、この女性は「お医者さんを呼ばんのが産婆の腕」と話す一方、状況を迅速に見極めて医師を呼んだため、産婦の死亡は1人もいなかったという。
 1948(昭和23)年に保健婦助産婦看護婦法が制定され、「産婆」は「助産婦」に改称されている。この女性が八幡浜市に移り、助産婦をしていた際の1966~1978年の「往診控」も残っている。大きさは縦15.0cm、横10.4cmと、「産婆記録」に比べて薄くてコンパクトになったが、記載事項は「妊娠回数」、「妊娠5か月目から毎月の妊婦の状態(尿蛋白=たんぱく=や子宮底の高さなど)」、「出生時の身長体重」などの項目が増えている。産婆時代と比べて最も大きな変化は取扱分娩数の減少で、例えば1969年の分娩数はわずか4件しかない。
 昭和30~40年代にかけて、出産方法や場所について全国的に変化が起こり、自宅ではなく病院や診療所、助産所などの施設で出産するケースが増えている。「衛生統計年報」によれば、愛媛県における1969(昭和44)年の病院などの施設内分娩は95.4%。それに対して自宅などの施設外分娩は4.6%で、少数派となっている。
 一連の記録からは、妊娠から出産、出産後の身体の回復など、女性に寄り添う産婆や助産婦(現在の助産師)の姿が浮かび上がるのみならず、戦前から戦後にかけての出産をめぐる変化も伝えている。

(専門学芸員 松井 寿)

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