調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第145回
2023.7.20

「軽便」予土線の前身に

宇和島鉄道の写真

(上)宇和島駅舎と3号機関車(下)近永駅舎と2号機関車
(いずれも県歴史文化博物館蔵)
 最近、地方鉄道の在り方が注目されているが、敷設された歴史を踏まえて議論することも大切だろう。今回紹介する資料は、予土線の前身である宇和島鉄道の写真である。
 1枚目は宇和島駅舎である。宇和島鉄道の発端は明治20年代にさかのぼるが、日露戦争などの紆余(うよ)曲折を経て、1914(大正3)年に宇和島―近永間が開通した。当時の宇和島駅は現在地と異なり、和霊神社の隣(現在の宇和島市城北中学校付近)にあった。
 写真㊤は、和霊神社の社叢(しゃそう)を背景に撮影したものと思われる。宇和島鉄道では、最初にドイツのコッペル社から3両の機関車を購入した。写真の右端に写っている機関車側面には「3」とあるため、3号機関車と思われる。その後ろに2両の客車をつないでいるのがわかる。
 写真㊦は近永駅舎である。右から2本目の煙突が見える2号機関車の後ろに1両の無蓋車(むがいしゃ)と3両の客車が見える。客車に乗客は見えず、無蓋車には自転車が積まれている。近永へ着いて乗客が降りた後の写真だろうか。2号機関車の手前には逆を向いた機関車も見える。
 これらの写真を残したのは立花秀顕(ひであき)氏。1874(明治7)年に元宇和島藩士長尾信敬(のぶたか=後の西宇和郡長・東宇和郡長)の次男として生まれた。東京工業学校(現東京工業大学)を卒業後、陸軍省築城部を経て、1912(明治45)年に宇和島鉄道に技師として入社した。
 宇和島鉄道の建設には今西幹一郎や玉井安蔵ら地元有志の尽力があった。軌間762mmの軽便鉄道で、宇和島―近永間には高串・光満・務田・宮野下・中野・大内・深田の各駅があった。1日上下9本。下り(近永方面)は1時間37分、上り(宇和島方面)は1時間32分を要した。
 宇和島鉄道はまだ国鉄が愛媛県入りしてない時期に宇和島―近永間を開通させ、1923(大正12)年には近永―吉野(現吉野生)間も開通した。軽便鉄道とはいえ、宇和島鉄道が地域に与えた影響は大きかった。

(専門学芸員 平井 誠)

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